神智学

真実がそこにあると断言することこそ疑わしい

神智学(しんちがく、Theosophy)は、マダム・ブラバッキー(本名エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー、Eelena Petrovna Blavatskij)により始められた、和洋折衷オカルトである。ブラバッキーが1888年に刊行した『シークレット・ドクトリン(秘密教義)』が神智学の始めだと考えてよいだろう。

神智学者がいう人間とは、ざっくり次のようになっている。
人間の本質は、霊(モナド)である。ただ、ここでいう霊は個々人ではない。「神との対話」にもあるように、元々、霊はひとつである。それが”個別”という概念を経験するために個々にわかれている。従って、肉体を離れ、戻った後はもはや元の個としての霊ではない。シャーマニズムでいう太霊とでもいうべきか。
再び個となる時も、違う個であることもある。この考え方からすると、ジャンヌ・ダルクの生まれ変わりが何人も存在していても不思議はないのだ。
そのように霊が存在する次元をアスバータカ界という。アスバータカ界をとりまくように、さらにアートマ界とかブッディ界というものがあるらしいが、役割は太霊から、個への変容をする場である。

個々人、すなわち魂は(コーザル体)という。コーザル体が存在する場をメンタル界という。
メンタル界のメンタル体の魂は、アストラル界にアストラル体を作り出す。これが心の世界といえる。
さらに、アストラル体はエーテル体というものを作り上げている。これは、気とかプラナとかから成る。さらに物理的な存在が肉体だという。

もっとも神智学は、ここに示されているとおりいろんな思想をまとめあげたものであり、ブラバッキー自身の考えではない、といわれている。(だから、最初に筆者は和洋折衷オカルト、と書いた。)

心理学

さて、若干、こじつけめいているが、心理学のスタートともいえるフロイド(Sigmund Freud)やユング(Carl Gustav Jung)の考え方を見てみたい。無意識をフロイトが発見したといわれるが、それはブロイアーとの共著という形で1893年に「ヒステリー現象の心的機制について」からだと考えてよいだろう。
ブラバッキーの「シークレットドクトリン」から遅れること5年であるが、ほぼ同時代にこういう話が出てきているというのは興味深い。
人間の心をより深く探ろうという興味が当時の人間にあったのではないだろうか。ラジオニクスが電気の黎明期に発明されたように、時代の背景や出来事の年代を知っておくことは重要である。
フロイトは抑圧するなにかから、潜在意識というものを発見した。ユングはそれをさらにすすめ(というか、彼自身オカルティスト)、共通潜在意識というものを発見した。大学者が一生をかけて研究したものをここまで要約することには抵抗があるが、話を進める。

ユングがいうには、肉体、顕在意識、潜在意識、共通潜在意識、魂、というように人間は分類されている。神智学が主張しているものと、ほぼ同類であるというと言い過ぎだろうか?

真理とはなにか?

神智学と心理学に共通点を見出すことができ、人間の意識の構造を理解する上で「なるほどね」という話まではいい。
心、魂やスピリチュアルなものを信じるか否か、という命題において、信じる者は「唯心論(モノより精神が根幹だとする考え)」といわれ、「唯物論(物質以外にはなにもないとする考え)」からは「バカじゃないの」風にいわれる。一方で、唯心論からすれば「死んだら後はなにも残らない」という考え方は心の底で、間違っていると感じるし、唯物論がモラルの欠如を招いているのは事実だろう。

なぜ、これが重要な問題かというと「人間の構造をどう捉えるか」ということだからだ。それは人の思考の背景として極めて大きい影響を与える。
死んだら終りという考え方から、モラルを導き出すのはかなり困難だ。だからといって神智学を信じる人が、「ここでいわれていることが真理だ」というのは、起源はともかく、内容を吟味しても疑問が残る。

ポパーの反証可能性

学問を学問たらしめる、つまり仮説の証明=真理については次のポパーの反証可能性、に耐えられるかどうかで判断される。

「仮説(法則)」から導出された帰結を観察データと照らし合わせる際に、たまたま得られたデータと帰結とが一致したからといって、そのことは法則が正しいことを論理的には意味しない。論理的に許容されるのは、法則からの帰結データと食い違うときに「法則は正しくない」との判断を下すことのみである。つまり、法則は「反証」されることはできても、それが真であることをポジティブに示すことはできない」

佐和隆光著 「夢と禁欲」、pp.74-75

私なりに乱暴にいうと、「絶対正しいって理論はないよ。」ということだと思う。上で述べた、神智学はすでにこの評価で×だといってもいいだろう。
過去を振り返ると、人類発生から数百年前までの人にとっての「真理」は地球は平面で、宇宙の中心であった。観測値の計算はとても複雑だったがそれを証明していた。
原子の周りを電子は衛星のように回っていると思っていた。それで高分子化学は進歩した。真実は電子は確率雲であり、原子内はスカスカではなかった。
マッハを超える飛行機はできない、と数学的に証明した学者がいた。しかし、戦闘機はマッハで飛んでいる。
光速ではモノは縮み、時間は伸びるといったら多くの学者が笑った。しかし相対性理論は正しいようだ。GPSは相対性理論により誤差を補正して動いている。
物質の将来は予想できないといったら、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といった。しかし、量子力学に基づいて原子力発電所はできた。
真理は人の捕らえ方でかわるのだ。
いきなり力強い結論「これが真理だ」は、そういった途端に間違っているのだ。我々にできることは、「今、こう見える」ということでしかない。
神智学を研究している人には、「俺こそが真理を知っている。」という態度の人が多いところがとっても疑問だ。

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