科学の限界

わからないことの中に真実を探す

私がマインド・マシーンの装置に興味をもったのはヒエロニマスの害虫駆除機器からでした。写真だけで毛虫を全滅させた機械があり、それが兵器にも応用されているかも知れないと記されていました。荒唐無稽なホラ話かもしれないが、わずかでも真実を含んでいるならば、従来の科学を超えた大変なことが起きているのです。詳細を知りたいと思いました。

しかし結論にたどり着く道のりは決して平たんではありませんでした。それは資料が入手困難であったからだけではないのです。次のような例で、ご理解いただけるでしょうか。。。。

よくわからない現象に一般の人がもっとも出会いやすいのが病気の治癒だと思います。

例えばアトピー(この言葉自体が原因不明という意味なのです)にかかった人が病院に通院しながらもさまざまな民間療法に頼っていることは、よく知られており、身近にもおられるのではないでしょうか。
その中で劇的に治る人がいる。俗にいう「医者もさじをなげた」原因不明の病が劇的に治癒する、この驚くべき現象を前にした時、人がとる態度は大別すると3とおりくらいあると思います。

最も多い態度が、「治癒した」という結果を絶対視し、どんな荒唐無稽な説明でも納得してしまいます。このような態度は「治してもらった」と信じ、その療法を万人に有効な絶対的療法だと信じてしまいます。科学的なアプローチを放棄し、態度は宗教に帰依した状態ともいえます。その効果を知ってか、古来、宗教は病気治療は欠かせません。

二番目の態度が、どんな現象にでも強引に科学らしい説明をつけ、つかない場合はインチキだとなかったことにしてしまう。仮に治療者に水を渡されていれば、「水分を多くとったから、治った」となんの裏付けもなしに納得する。なにも「科学的」理由がつきそうにないと、「偶然、自然に治ったんだよ。」というタイミングのせいにする。劇的に治った場合は、「実はステロイド薬を使っていたんだよ。」と、なにも調べたわけでもないが、インチキにしてしまう。
「科学的」に答えを求められないことが怖いだろう、その科学を詳細に調べもしないで推測で済ませてしまう。その態度こそ「科学教」の信者です。
外科などの例外を除き、あらゆる治癒は最終的には本人の自己治癒力によります。
たとえプラシーボ効果(効果があると思うと実際に効果のあること)であったに過ぎなくても、特定個人の治癒力を引き出した理由を論理的に探っていくことが科学的態度であろう。

今では笑い話として語られるが飛行機が理論的に不可能であることを証明した学者がいたし、音速を超えて飛ぶことは不可能であることを証明した学者もいたのです。
科学的な観点で事実を分析し、わからないものはわからない、というべきです。そうでなければ科学は進歩しません。

三番目の態度は、一番目と二番目の中間に位置する。信じるわけでもなく、手持ちの貧弱な知識だけで強引に理論付けを行うわけでもない。いったんは効果をもたらした療法をよく観察し、試し、主張を十分に理解する。そこから現在の科学で説明がつかないか考える。

この一度は受け入れて考えてみるというアプローチは過去、学問の世界でも成果をもたらしてきました。
鍼を扱う中国医学や不思議な儀式を行うシャーマニズムを学者が最初に研究した時は、表面的に見ただけで判断し迷信と切り捨ててしまいました。場合によっては貴重な本や道具を焼き払ってしまいました。
ごく少数の学者が中国医やシャーマンに弟子入りし数十年の修行をする、すなわち徹底的なフィールドワークをし、真の意味を理解し持ち帰ってきたのでした。
持ち帰られた成果は心理的な治療効果、薬草の効果さらには哲学などについて貴重な情報がもたらされ、なかには現代科学を大きくすすめる成果をもたらしたものもあります。

科学が万能かというと、それにお答えするのにちょうどよい記事が朝日新聞1997年3月15日12版4面にでておりました。免疫学者の多田富雄氏と神経生理学者の伊藤正男氏の対談より抜粋しております。

多田:...例えば臓器の拒絶反応は自分の臓器と他人の臓器を区別しているといいますが、反応に参加している細胞自身には自己も非自己もなく、決められた単純なことをやっているにすぎない。けれども、最終的には自分の臓器は排除せず、他人の臓器は排除するというように、自己を守ためのまとまった行為を作り出している。

……

伊藤:..例えば「赤いリンゴが落ちる」という場合、「赤い」「リンゴ」「落ちる」という3つの情報を前々別々のところで処理している。それをどうやってあわせているのか、「結合問題」といわれるんですが、さっぱりわからない。

いい古されていることですが、部分が集まって全体ができているのだから、部分、部分に分割して調べていけば全体がわかる、という「還元主義」で科学は成り立ってきました。ところが最近は、ほんの少しの部分が全体のありようを決定的に変えるということがわかってきており、「複雑系」という分野で研究が始まっています。それでも、上の例のように全体をある「意図」に引っ張っていくものはなにか?まだまだわからないようです。
次に現役の神経学者の意見を示します。

  • 「いったい心は脳のどこに宿っているの?」
  • 「意識・魂は脳のどこに宿っているの?」
  • 「いったい脳のどこで,人間は思考しているの?」
  • 「インスピレ-ションは,どこで受けるの?創造機能はどこにあるの?」
  • 「人間は万物の霊長で偉い。大脳は高等動物しかないのだから,人類とほかの哺乳類との間でも,きっと大きな違いがありますよね?」

これらには,脳科学者は,いまだに何も答えをもちません。 「どこで考えているのか」さえわかっていない始末なのです。
『え!だって脳の地図なんかに,思考回路とか,創造機能とか,書かれてますが?』『はい。あれは今や否定されつつある仮説にすぎません。脳学者だって,本当に知りたい所は,そういった重要なポイントなのですよ。250年も研究し続けてきたのに,考えている場所すら,科学者にはつかめていないんです。だから彼らだって「人工知能が本当に考えることができるようになるか」コンピュ-タ-の進化に興味シンシンなんです。』

脳の記憶できる場所が決まっていない証拠を私ですらふたつあげることができます。

ひとつは学生のころのテストの成績です。知識の定着が生徒全員、同じところに同じように記憶されるのであれば、テストの成績がばらけることの説明がつきません。

もうひとつは現代ではコンピューターやプログラミングを学ぶことが流行していますが、これらは当然、大昔にはありませんでした。いったいどうやって記憶の場所は決まるのでしょうか?

最初に私が興味をもった、ヒエロニマスの害虫駆除機器の解明は、使い古された記事をもとに仮説の上に仮説を組み上げた雑誌ムーのような扇情的な話に終始するのか、わからない
ことはわからないとしてでも再現テストして研究してみるフィールドワークが必要ではないでしょうか。パワースペース1999という雑誌は結構再現テストを試みていました。

ヒエロニマスという技術者は、その装置に一生を捧げたのです。簡単に「トンデモな話だ」と割り切る人にものすごい傲慢さを感じるのは私だけでしょうか。いったんはヒエロニマスの主張を再現する努力をし、結果をふまえて評価するべきかと思います。

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