蘭亭序


書聖といわれる王羲之の代表作だと初めて知った。原本はすでにないらしいが、酔っ払って書いた草稿が後から推敲しようもなかった完成品という伝説もある。

現代語訳を転載する。

永和九年(三五三)癸努丑の歳、三月初めに、会稽山のかたわらにある「蘭亭」で筆会をひらきました。心身を清めるのが目的の催しです。

大勢の知識人、それも年配者から若い人までみんな来てくれました。

さて、ここは神秘的な山、峻険な嶺に囲まれているところで、生い茂った林、そして見事にのびた竹があります。

また、激しい水しぶきをあげている渓川の景観があって、左右に映えています。その水を引いて觴を流すための「曲水」をつくり一同まわりに座りました。

楽団が控えていて音楽を奏でるような華やかさこそありませんが、觴がめぐってくる間に詩を詠ずるというこの催しには、心の奥を述べあうにたるだけのすばらしさがあるのです。

この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がのびやかにながれていました。

我々は、宇宙の大きさを仰ぎみるとともに、地上すべてのものの生命のすばらしさを思いやりました。

なぜ我々が、目の保養をはかるのか、また、心を開いて話しあおうとするのか、そのわけはここにあるのであって、見聞の楽しみの究極といえます。本当に楽しいことです。

そもそも人間が、同じこの世で生きるうえにおいて、ある人は心中の見識こそいちばん大切だとして、部屋の内にこもり、うちとけて人々と相対して語り合おうとし、ある人は、言外の意こそすべての因だとして、肉体の外面を重んじ、自由に生きようとします。

どれをとりどれを捨てるかといっても、みな違いますし、有りさまも同じではありませんが、それぞれ合致すればよろこび合いますし、わずかの間でも、自分自身に納得するところがあると、こころよく満ち足りてしまい年をとるのも忘れてしまうものです。

自分の進んでいた道が、もはやあきてしまったようなときには、感情はことごとく変わりますし、胸のうちも左右されてしまいます。

以前あれほど喜んでいたことでも、しばらくたつともはや過去の事跡となることもあります。だからこそおもしろいと、思わないわけにはいかないのです。

まして、ものごとの長所・短所は変化するものであってやがては終わりになってしまうのはどうしようもありません。

昔の人も死生こそ大きな問題だといっています。これほど痛ましいことはありません。昔の人は、いつも何に感激していたか、そのさまをみていると、割り符を合わせるようにきまっていました。

いまだかって、文を作るとき、なげき悲しまないでできたためしはなく、それを心に言いきかせるすべはありませんでした。実際に死生は一つだなどというのはでたらめです。

長命も短命も同じなどというのは無知そのものです。後世の人が今日をどうみるか、きっと今の人が昔をみるようなものでしょう。

悲しいではありませんか。こんなわけで今日参会した方々の名を並記し、それぞれ述べたところを記録したわけです。

世の中がかわり、事物が異なったとしても、心に深く感ずるということの根拠は、たいてい一つにつながることです。

後々の世にこれを手にとって見てくれる人は、きっとこの文章に何かを感じてくれるにちがいないと信ずる次第です。

 

芸術新聞社「墨」第99号より

書はわかりません。が、書いてある内容は、なんだかよくありませんか。

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