ラジオニクス界の偉人(ルース・ドラウン)

(Ruth Beymer Drown 1892-1963)

ルース・ベエイマー・ドラウン(Ruth Beymer Drown 1892-1963)は、1892年 プロの写真家を父として、アメリカコロラド州グリーリーに生まれる。18歳で農夫と結婚、二人の子供をもうけるが、その後離婚、ロスアンジェルスに移り住む。ロスアンジェルスでは、ガソリン・スタンドで働き、余った時間を写真ラボで働いた。そのおりカリフォルニア・エジソン社の秘書と知り合い、カリフォルニア・エジソン社に勤める。そこで、写真技術に加え電気技術を学ぶ。エジソン社では、アンテナに関する開発にたずさわっていた様である。

ラジオニクスの創始者アルバート・エイブラムスの秘書をしていた記録ものこっているが、ストロング博士のアシスタントを勤めながらラジオ療法を学び、1927年にカリフォルニア州医師免許を取得する。
ドラウン研究所を構え本格的にラジオ療法の研究に取り組む。後に医学的な知識もさることながら、エジソン社での電気知識と写真技術をいかし、独自の装置 ”ホモ・ヴィブラ・レイ(同種波動療法)装置”や”ラジオ・ビジョン装置”を開発する。

ホモ・ヴィブラ・レイ(同種波動療法)

この装置はラジオニクス装置の原型を確立したことで知られる。9個のダイヤルとスティック・パッドと呼ばれる反応検出器からなる。
ダイヤルは病人の症状、重症度といったものを数値に置き換える。このころになるとエイブラムスの発見したE.R.Aの抵抗値そのものには意味のないことがわかってきており、オーム(Ω)という単位は取り去られレート(RATE)と呼ばれるようになった。

また、検査する人間の腹をこするかわりに、病人と導線でつなげば、ゴム膜をはったものでも病人と同等な反応がでることがわかり、スティックパッドがつけられた。

ドラウンの装置によって多くの病気を治療し その実績も数多く残している。この装置は医師向けにも本格的に発売した。 たちまち一大ブームが巻き起こり、ドラウンのラジオ療法(Radio Therapy)はヨーロッパにまで知れ渡った。

しかし、FDA(合衆国食品衛生局)は、合理的理由のみつからないこの療法を告発した。

ここに、内部の配線があるが、電気的にはあまり意味のある回路ではない。円形のものは、可変抵抗器(ボリューム)である。内部的に合理性がないとはいえ、2万人近くの病人を治した実績と、賛同する医師の応援をもってしても、裁判で有罪の判決をうけてしまった。

その後、研究を続ける博士は再び逮捕され、獄中で1963年 72歳の人生を閉じる。 さだかではないが、自殺したと言われている。

イギリスでジョージ・デ・ラ・ワーが裁判で無罪判決を受けたのとは対照的である。

ラジオ・ビジョン

ドラウン博士は優秀なラジオニクス装置のオペレータであったが、やはり一種の超能力者でもあったと考えられる。彼女の発
明によるラジオ・ビジョンはラジオニクス装置と似たもので、写真を写せるようになっている。
博士はこれで、内臓の写真など数多く撮影に成功しているが、同様の機器で他のひとが行ってみたが成功はしていない。

一種の念写ではないかと考えられている。

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